麦(BAKU)の由来

 私がまだ小さかった時の話です。
ある冬の夕方から夜にかけて私の住んでいた勇払(ゆうふつ)の街は嵐のような吹雪になりました。家の前の国道には大きな吹き溜まりができていました。通りがかりのトラックが前にも後ろにも動けず雪の中にうずもれてしまいました。
運転手さんがあまりの寒さにしばらく暖をとさせて欲しいとやってきました。母は何一つ疑う様子もなく「困ったときはお互いさま、さあこんな汚いところでよかったらどうぞ、どうぞ」と見知らぬ男を招き入れて茶やたくあん漬け、残りのご飯などをさしだしました。

 一夜あけて、空は快晴、男は礼をなんべんも言いながら出て行きました。
以後、その車が家の前を通ると、「あのときのお世話になった感謝の印です」と、野菜や魚を置いていくのでした。また、前を通るときは、ププッとクラクションを鳴らして通り過ぎて行きました。「いつまでたってもあの夜のことを忘れないで、今日もまた、あの人が通って行ったよ」と母は顔をほころばせていました。
私もいつかは母のように人様のお世話をしてみたいと思いました。

 学校勤めも終わり、一区切りついたところであと少し働きたいと思い、永年の夢を実現することにしました。
娘達二人は私が働いていたカトリック系のミッションスクールを卒業しました。学校の校章は『麦』でした。学校のドアというドアにも、校舎の外壁にも麦の模様が描かれていました。
34年も勤め、朝な夕なに聖歌を聞き、ミサにあずかったわりに信仰心も芽生えず、信者になることもなかったですが、知らず知らずの間に娘たちも私自身もキリスト教の校風が染みついていたのかも知れません。

 ある日、娘たち二人とペンションの名称を何にしようと相談していました。
美瑛は『麦』がたくさん栽培されているので、『麦』にしようということになりました。 そして、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」という聖書の一節も下地になりました。
また、私の永年の夢が実現するために、悪い夢を食べて、よい夢がかなうようにという、中国のことわざにある架空の動物の名前をかけて、『ばく』と読もうということになりました。

 今は、亡き母の人徳を偲び、私と娘がお世話になった学校の紋章にも一致する。
ずいぶん欲張った名前をつけたものです。